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井沢元彦著『逆説の日本史4巻ケガレ思想と差別の謎』(小学館1996.6.10発行)の紹介

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サークルレポート
Hiro
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私は,前々から疑問に思っていたことが2つありました。

Hiro
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一つは,被差別部落はなぜ日本にうまれたのか。部落差別をなくすにはどうしたらいいのか。もう一つは,「日本に自衛隊は要らない」という人がいるが,それはなぜなのか,の2つです。

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私は,学生の頃からこの日本社会で行われていることを自分なりに明らかにして,真実は何なのか知りたいと強く思っていました。

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教師になり,仮説実験授業を知り,板倉さんの講演を聴いたり,本を読んだりして自分なりに勉強してきましたが,「日本に自衛隊は要らない」という人がいるが,それはなぜなのかについては,まだ分からなかったのです。

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私が学んだ「被差別部落や差別をなくす方法」については,改めてレポートにしたいと考えています。お楽しみにお待ちください。

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井沢さんの本を読んで,そうだったのかと私は納得することができました。そこで,井沢さんの考え方をあなたにぜひお伝えしたいと思い,このレポートを書いています。

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まず,日本人の自衛隊に対する思いから考えていきたいと思います。「平和憲法(憲法第9条)があるから日本は,70年以上もの間,他国と戦争をしていない」と考えている日本人が多いという印象を,私は持っています。

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実は,私も同じようにそう思っていました。それが正しいのだとも思っていました。確かに日本国は戦争を放棄しているのだから,日本国は戦争ができないことは明らかです。戦争ができない状態で,もしも他国から日本国が攻撃されたらどうなるのでしょうか。

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日本国には平和憲法があるから他国から決して攻撃されないのでしょうか。そんなことはないでしょう。

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実際問題,直近ではウクライナがロシアから特別軍事作戦と称して,攻撃されています。つまり,現時点(2024年4月では),2国間はいわゆる戦争状態です。ウソか本当かわかりませんが,ロシアには日本国を攻撃する選択肢もあったと言っている人もいます。

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国が存在することによって,はじめて国民に人権や所有権や幸せに生きる権利などが与えられると,私は思っています。

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国民には,権利とは逆に納税や勤労・教育などの義務も発生します。また,権利と義務以外にも,国民は国による大きなリスクを抱えていることも事実です。

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例えば,大金を稼ぐ人(大金を稼がない人も同じですが)にかかる高額な税金や経済の危機の場合に政府が実行する預金封鎖,徴兵制(今の日本には徴兵制ありませんが,復活するかもしれません)などです。

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話を元に戻します。極端な話,<平和憲法があるから日本に軍隊などいらない>という考え方をする人が日本国にいます。軍隊というのは,国の危機管理として存在しないといけないものだという考え方をする日本人が,私は少ないように思います。

Hiro
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太平洋戦争で敗戦を経験し,日本では310万人もの方が亡くなっていることを考えると,戦争をしてはいけないと考えること自体,私は当たり前のことだと思います。一方で,<戦争をしてはいけない>と<軍隊はいらない>という考え方を結びつけるのは,私はおかしなことだと考えています。

Hiro
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<戦争をしてはいけない>と<軍隊は必要>という2つの考え方は矛盾なく両立できるからです。日本と同じように第二次世界大戦で敗戦を経験したドイツとイタリアには,軍隊が存在しています。ドイツ人とイタリア人は,<戦争をしてはいけない>と<軍隊は必要>を両立させていると私は考えていますが,どうでしょうか。

Hiro
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さて,日本人の<軍隊はいらない>という考え方について考えてみましょう。ここで,問題です。

問題1.<軍隊はいらない>という考え方は,日本のどんな文化と関係していると井沢さんは考えているでしょうか。難しいと思いますが下の選択肢の中から1つ選んでください。繰り返しますが,井沢元彦さんが考えていることですので,気楽に考えてくださるようにお願いします。
 予 想
  • ア.恥の文化
  • イ.言霊文化
  • ウ.神道文化
  • エ.儒教文化
  • オ.仏教文化
  • カ.その他

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正解は,イ.言霊(ことだま)文化です。

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グーグルで言霊文化を私が調べると次のように書いてありました。

  • 言霊文化とは,言葉に霊力が宿り、口に出して音(声)にすることにより、発した言葉どおりの結果をもたらす力があると信じる思想です。言霊は「ことだま」と読み、言葉が目に見えない力を持っていることを意味します。発した言葉が何らかの形で現実に影響を与え、良い方向へも悪い方向へも導くという考え方です。日本では昔から、言葉の持つ力が信じられてきました。(年代を表す言葉)の日本人は、ことばに霊が宿っており、その霊のもつ力がはたらいて、ことばにあらわすことを現実に実現する、と考えていました。
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井沢さんの「言霊文化」についての考えをあなたにお伝えする前にもう一つ,私からの問題です。

問題2.日本人が軍隊抜きの平和にこだわるのは,日本の何という思想(概念)だと井沢さんは考えているでしょうか。難しいと思いますが下の選択肢の中から1つ選んでください。何度も繰り返しますが,井沢元彦さんが考えていることですので,気楽に考えてくださるようにお願いします。
 予 想
ア.儒教思想
イ.仏教思想
ウ.神道思想
エ.ケガレ思想
オ.怨念思想
カ.その他

 

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正解は,エ.ケガレ思想です。

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井沢さんの「言霊文化」と「ケガレ思想」についての詳しい解説は,このレポートの最後に載せたいと思います。

Hiro
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ケガレ思想を私がグーグルで調べると次のように書いてありました。

  • ケガレ思想とは、(年代を表す言葉)からある思想で、特定の人や物、場所などにおいて、人間と自然の均衡が壊れた時に生じる不安を嫌い、避けようとする観念です。ケガレは、人や特定の動物が死んだ際などに生じると考えられており、けがれたものや人に直接触れたりすると、それが伝染すると考えられていました。ケガレの具体例としては、血や腐敗などにまつわるものがあげられます。たとえば、出産、死、月経、病気などです。神道では、死を「穢れ(けがれ)」であるとみなし、神が祀られている場所に持ち込まないようにしています。そのため、神式の葬儀は神社で執り行われることはありません。
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ここで,問題です。

問題3.先に説明した<ケガレ思想>は,いつ頃から日本で始まったとあなたは思いますか。あなたが思う時代を下の選択肢から選んでください。
 予 想
ア.縄文弥生時代から始まった。
イ.大和飛鳥時代から始まった。
ウ.平安時代から始まった。
エ.江戸時代から始まった。
オ.明治時代から始まった。
カ.昭和時代から始まった。
キ.その他
ク.まったく分からない。

Hiro
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ケガレ思想がいつ頃から始まったのか,一般に考えられているのは,古代からです。つまり大和飛鳥時代からということになります。先の(年代を表現する言葉)の( )の部分に(古代)という言葉に入れ替えていただくと,話がスムーズに繋がります。

Hiro
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日本の古代で,なぜケガレ思想が始まったのかという詳しい内容については,残念ながら井沢さんも書いていませんでした。<日本が島国だったという点が大きい>と,井沢さんは述べておられますが,これからの研究課題になるのかもしれません。

Hiro
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たいへん,長らくお待たせしました。日本に依然として残っていると考えられれている,井沢さんが考える「言霊(コトダマ)文化」と「ケガレ思想」についてお伝えします。

Hiro
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本文のp.61から数ページにわたり部分的に抜き書きすることにします。

「有事」の際に被害者となるのは国民である。だから普通の国では,国民がそういう被害とならないように,あらゆる不幸な事態を想定して準備しておく,これが危機管理である。
アメリカにはFEMA(連邦緊急事態管理庁)という災害救助専門の組織があるが,これがあるからといって軍隊を廃止したわけではない。
 有事立法とは結局「緊急時のマニュアル作り」のことなのだが,その作成自体に反対してつぶしてしまうのだから,それが存在しない。侵略など現実的可能性はないという人がいるかもしれないが,たとえ1%でも可能性があれば,その対応は準備しておかなければならないのである。
 どうして,日本人はこんなに「おかしく」なってしまったのか。その原因は平安時代にある。実は,平安時代の中頃の1019年(寛仁3),日本が16日間だけ異民族の侵略を受けたことがあった。刀伊の入寇(といのにゅうこう)という。この侵略,現地九州大宰府の役人の「超法規的」行動によって撃退された。責任者は権師(ごんのそつ)藤原隆家である。問題はこの隆家に対し当時の摂関政府がどう対応したかということなのである。
 何の恩賞も与えなかったのである。それどころか叱責すらしたのである。
Hiro
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ここで,問題です。

問題4.日本を侵略した刀伊(女真族)を撃退した藤原隆家は,なぜ叱責されたと思いますか。次の選択肢から1つ選んでください。
 予 想
ア.隆家が刀伊の入寇を都へ急報した際,その書状の形式が間違っていたから。
イ.隆家が刀伊に対して自分勝手な行動(撃退)をとったから。
ウ.隆家が刀伊に対して撃退してもいいかどうか,政府にお伺いを立てなかったから。
エ.その他

Hiro
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正解は,ア.隆家が刀伊の入寇を都へ急報した際,その書状の形式が間違っていたから,になります。

(ヒロじい)なんという形式主義でしょう。「大きな問題は,そこではない」と,私は考えます。どうも摂関政府の考え方が違うらしいのです。昔とはいえ,当時の超優秀な人達の判断とは思えません。ということは,考え方が根本的に異なるのでしょうか。井沢さんは以下のように考えています。
Hiro
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本文p.73最後の部分から一部を抜き書きします。

手柄を立てた人間に褒賞(ほうしょう)を与えなければ,政府であれ,会社であれ必ず崩壊する。信賞必罰は政治の要諦だからだ。その意味で「愚劣」には違いない。だが,その「賢愚」を判断する基準は,「普通の国」の基準である。それは「国は国民を保護すべきものだ」という「哲学」を持っている古代中国であり中世ヨーロッパであり,現代の「日本以外のすべての国」の持つ基準なのだ。彼らの政治には,いわゆる「普通の国」とはまったく違う「哲学」があってそれに忠実なだけではないか,と考えている。その「哲学」ないし「基準」が,「普通の国」とはあまりに異なるので,一見「愚かな」ように見えるだけではないのか,と。
ここでさらに考えを進めると,それは「哲学」というより一種の「宗教」ではないか,ということだ。では,彼らの宗教的信念とは一体何か。もう,おわかりだろう。言霊である。コトダマというのはそれほど重要な概念なのである。日本には「歌道」という一つの宗教がある。その宗教の最も重要な概念がコトダマである。では,その宗教にキリスト教における聖書のような聖典はあるのか。もちろん,ある。それは「二十一代集」(天皇の命令によって編纂された二十一の和歌集)であり,一つだけ選ぶならその最初の歌集である『古今集』「仮名序」(仮名書きの序文)に戻るのである。
(ヒロじい)(「仮名序」と訳文は省略します)大事な部分だけ書きますと,次の下線を引いた箇所になります。
力ひとつ入れないで天地の神々の心を動かし,目に見えないあの世の人の霊魂を感激させ,男女の間に親密の度を加え,いかつい武人の心さえもなごやかにするのが歌であります。(『新編日本古典文学全集⑪ 古今和歌集』小沢正夫,松田成穂校注・訳 小学館刊 傍線・カッコ内引用者)
たぶん,ほとんどの日本人は,ここに書いてあることに共感を示すだろう。あるいは共感を示さないまでも,ここで紀貫之(「仮名序」の作者)が述べている考え方について違和感を抱く人はまずいないと言っていいだろう。しかし,驚かないで欲しい。「仮名序」のこの部分に語られた思想は,世界の常識から見ると極めて特異でユニークで「普通の国」では有り得ない考え方なのだ。
これは一口で言うなら,和歌が人間の心を核にして発現するという,人間主義の宣言である。(中略)これについて,次にあげるドナルド・キーン氏の文章が,筆者を驚かせた(『日本の文学』,吉田健一訳,筑摩書房)。
第一に,貫之は詩には超自然的な存在を動かす力があると説いていて,これは欧米で超自然的な存在が,その霊感に動かされた詩人を通して語るのだと信じられて来たことの反対である。(中略)詩にどれだけ不思議な力があることになっていても,詩を書くのは人間の力だけで出来ることと考えられていたのである。
超自然の助けを借りずに,詩は全く人間の創るものだ,とキーン氏は貫之の言葉を聞いた。長く,仮名序のこの部分は,文字どおり「月並みなこと」と思われて,まず,研究者の興味をひかなかった部分である。キーン氏の意見は,ここに重大な問題のあること知らしめた。(『新潮日本古典集成⑲ 古今和歌集』解説 奥村恒哉校注 新潮社刊 傍線・カッコ内引用者)
ここでドナルド・キーン氏が述べていることはキーン氏個人の「意見」ではない。事実である。欧米(西洋)では,詩(歌)は人間が作るものというよりは,超自然的存在(=神)によって「作らされる」ものであって,日本のように,人間が独自に作り,それによって神を動かす,などという考え方はない,と言っているのである。(図参照)
問題は二つある。一つはこれが西洋にはなく中国(東洋)でも,これほど詩の力を認めてはいない,という事実。もう一つは,それにもかかわらず日本人はこれを「月並なこと」だと思って意識していない,という事実である。
これは,明らかに一つの宗教である。
それも人間が作った和歌が超自然的存在(=神)を動かす,という極めてユニークな宗教である。当然,歌に熟達するということは,神を動かす力を磨くということになる。歌人とは一種の呪術師であるということにもなる。言葉に,あるいは言葉を部品として組み立てられた和歌に,そうした霊力を認めること,これこそコトダマ信仰に他ならない。
そこで考えて頂きたい。
「コトダマ教」が国教である国の政治は,一体どのような形態を取るだろうか。これは具体的な政治問題を考えてみると,話はわかりやすい。たとえば国防問題を考えてみようか。「コトダマ教」の無い「普通の国」ではどうなるか?
まず,国である以上国民がいて財産がある。それがある以上他国から侵略を受ける可能性はとはいえない。従って為政者は義務として軍備を整え,万一の事態に備え合わせて平時の抑止力とする。軍備がないよりはある方が侵略を招く危険性が少ないからだ。
ところが,コトダマ教国(?)ではこうならないのである。
まず第一に「侵略の可能性がある」などと想定すること自体許されない。なぜなら,これまで散々述べたように,コトダマの世界では「言えば実現する」のだから,そういう不吉なことはコトアゲできないのである。言えば,仮にそれが愛国心からの言葉であったとしても,「日本が侵略されることを望んでいる不忠の臣」ということになってしまう。しかし,そういう事態の想定すら許されないとなれば,法律も作れないし予算も取れない機構など設立しようがない。実際そうだったのである。平安時代には「国を守るための軍隊」は無かった。そして特筆すべきことは,刀伊の侵略があった後も「軍隊を復活すべきだ」という議論がまったくされなかったことだ。
では,どうやって国を守るのか?
簡単だ。コトダマの世界では歌(言葉)が超自然的存在を動かすのだから,歌さえきちんと作っていればいい。つまり「平和」「平和」と歌で詠めば,そのコトダマの力によってあらゆる神や怨霊がなだめられ,日本は平和なのである。侵略は現代の視点で見れば明らかな「人災」だが,古代人はこれも悪霊の働きかけによるものと信じていた。したがって歌の力でこういう悪霊をなだめておけば,そもそも侵略など起こり得ない。
(略)
今でも,同じことを言う人々が大勢いるではないか。
たとえば「戦後日本の平和は平和憲法によって守られた」と頑強に主張する人々がいる。この人々は当然最も強硬な「護憲派」である。それであるがゆえに,憲法第九条の規定通りに自衛隊(軍隊)は廃止せよ,などという。こういう人々の中には,最高学府を出た学者もいれば高名な文学者もいる。だから,その意見を信じる人々も多くいる。
それでは,なぜ日本には「平和憲法によって戦後の平和が守られた」と信じる人々が大勢いるのか。
つまり,まだコトダマ教が生きている,ということに他ならない。日本国憲法という「平和の歌」さえ「詠んで」いれば,武力(軍隊)など必要ない,ということでもある。
(ヒロじい)なるほど,コトダマ思想によって軍隊が必要ないことは古代からの日本人の考え方に由来するとは思いもしませんでした。<軍隊は必要ないという考え方>は,昔の共産党や社会党が言っていることという認識しかありませんでした。ということは,外国から来た考え方ではなく日本人が考えたことだということです。私にとって,今まで認識できていなかった新しい考え方を学ぶことができて大変うれしくなります。
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さて,これからはケガレ思想について学んでいきたいと思います。

Hiro
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井沢さんは,「「ケガレ」という思想が日本人にある」と書いています。「これは,事実であって,私(井沢さん)の意見ではない」,とも書いています。そして,歴史事典を紹介しています。次に書くものは『国史大辞典』(吉川弘文館刊)から引用されたものです。

 穢(ケガレ) 一般に罪(つみ)とともに罪穢(つみけがれ)という。宗教的な観念で,日常普通のものから区別して,特別なものを神聖視することをタブーtabooというが,その神聖sacreといううちにも,また清浄なものと不浄なものとがある。その不浄がすなわち穢であり,これに接触したりすることが触穢(しょくえ)である。穢はまた罪とも同一視され,それも未開や古代の社会では全く物質的に考えたもので,何か悪霊の仕業による禍または災とし,これを隔離し排除する。(中略)すなわち罪も禍も過も皆同じく穢で,悪霊の仕業と考える。古くはこれをまとめて天津罪(あまつつみ)と国津罪(くにつつみ)としている。天津罪とは農耕・機織を妨害する罪穢であり,国津罪は当時の社会生活に対する罪や禍・過などをあげている。すなわち死人と血の穢,きたない病気や腫物など,不義の関係,みだらな行為,鳥や虫の災,不慮の災害などを挙げている。すべてその生活を脅かすもので,その意味で罪であり,禍を及ぼすということで,これを悪霊の仕業とする。その社会の秩序を正しくし,禍を転じて福とすることが,宗教的nいろいろの行為・行事ともなる(以下略)
「罪も禍も過も皆同じく穢で,悪霊の仕業と考える」――これがケガレ思想のエッセンスだ。これは日本史そして日本人を動かす極めて重要な原理である。
(ヒロじい)この表現は難しいので,井沢さんはある簡単な例を挙げています。井沢さんが挙げた例を私なりに書いてみます。
普通の日本人は自分の茶碗とお箸を使っています。例えば,父親が娘に「これは私が20年使ってきた箸だが,お前にやろう。明日から使いなさい」と言ったとします。娘はどういう反応をするだろうか?
「ありがとう。使わせていただきます」と答える娘はまずいないでしょう。むしろ断固拒否するでしょう。それでも父が強要したら娘はなんと言って拒否するでしょうか。日本人なら予想がつくだろうと井沢さんは言います。それは,
「キタナイ」という言葉です。「キタナイ」から嫌だと言うはずです,と書かれています。
そういう父であっても,会社へ行き,普段自分が使っている湯呑み以外の,他人の湯呑みでお茶を入れられたら,やはり嫌でしょう。いくら「キレイに洗いました」と言われても,納得しないはずです。われわれは,他人が長い間使った箸や茶碗に,その人独特の「垢」のようなものを感じています。
これがケガレです。ケガレとは実体としては存在しません。あくまで感覚なのです。と,井沢さんは書いています。
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本文p.251から一部を抜き書きします。

(ケガレ忌避)これは日本人特有の信仰だ,ということである。もちろん,これは言霊と同じくかつては世界中にあった信仰で,今でも未開の地域なら残っているかもしれないが,いわゆる普通の国では,残っているのは日本だけである。なぜ,そうなったのか。
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ここで,問題です。

問題5.ケガレ思想やコトダマ思想が日本に残っているのはなぜでしょうか。井沢さんはどう考えているでしょうか。次の選択肢から1つ選んでください。
 予 想
ア.日本が文明の中心から遠く離れた「離れ小島」だったから。
イ.日本人のきれい好きな性格にちょうど合っていたから。
ウ.日本に四季があり,温暖で湿度の高い地域であるから。
エ.その他

Hiro
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正解は,ア.日本が文明の中心から遠く離れた「離れ小島」だったから,です。

(ヒロじい)日本が離れ小島だったことと一緒に,日本は温暖で湿度が高くモノが腐りやすいということも大きな原因ではないか。もう一つ,四季による自然の美しさに日本人は,神を身近に感じていたことも大きかったのではないか,と私は考えてます。
Hiro
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さて,話を井沢さんの考え方に戻します。本文p.254から一部を抜き書きします。

 日本には欧米にもアジアにも無い極めて理不尽な差別がある。あらためてこの差別の特徴を抽出してみると,次のようになるだろうか。
①人種的差異(肌の色や骨格)に基づくものではない。
②日本に特有のものである(ただし韓国には類似のものがある)。
③通常なら「清浄」なものの象徴とされる「火」すら,不浄なものとみなすことがあるほど,異常な潔癖症になる。
ここから導きだされる結論は唯一つしかない。すなわちこれは日本人特有の信仰,それも「迷信」に基づくものだ,と。これまでに述べたように,科学的にはまったく存在しないはずの「汚れ」を,日本人は感じている。これがケガレだ。だからこそ,他民族にとっては「清浄」の象徴である「火」ですら,「キタナイ」と思うのである。にもかかわらず,われわれ日本人にはその「存在しないもの」を「感じている」。それゆえに,差別がいつまでたってもなくならないのである。では,こういう差別を根絶するためには,どうすればいいか。
Hiro
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 ここで,私からの問題です。

問題6.日本人のケガレ思想による差別をなくすには,どうすればいいと井沢さんは考えているでしょうか。次の選択肢から1つ選んでください。
 予 想
ア.「ケガレ思想」や「差別」について考えたり,触れたりしないようにして過ごすことが大事である。
イ.差別しないことを法律で決めて,国民全員で実行することが大事である。
ウ.日本には古代から「ケガレ思想」というものがあり,それが差別の原因であること,ケガレは実体のない迷信にすぎないことを,学校できちんと教えることが大事である。
エ.その他

Hiro
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正解は,ア.日本には古代から「ケガレ思想」というものがあり,それが差別の原因であること,ケガレは実体のない迷信にすぎないことを,学校できちんと教えることが大事である,になります。

(ヒロじい)日本での差別の解消のために学校で教えることができない理由を井沢さんは,次のように書いています。
Hiro
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本文p.259から一部を抜き書きします。

以前,この『逆説の日本史』を連載している『週刊ポスト』が差別反対キャンペーンをやったところ「もっとやるべきだ」という賛成の投書に次いで多かったのが「こんなことはやるべきではない」という投書だった。もちろん,こういう投書をした人は「差別賛成」なのではない。彼等の論理はこうだ。「せっかく差別というものが過去のものとなりつつあるのに,わざわざ特集をやると何も知らない若い人々にも差別の内容を知らせ,結果的に差別を助長する。そのようなことはするな」,というのである。ここには物事を直視せずに,むしろ無視する,つまり無いことにすれば実体も無くなる,という発想がある。だから,彼等はたとえば「穢多」という言葉もできるだけ使わずに済まそうとする。いや,それどころか,辞書からも追放しようとする。つまり「言葉狩り」である。穢多という言葉を辞書から追放しても「新平民」と言い換えても,差別の原因となるものを直視し分析しない限り,差別否定などできるわけがない。いくら口で「人間は生まれながらに平等です」と理念を説いても,われわれ日本人は往々にして科学では説明できない「ケガレ」というものを感じている。だから,それが差別につながるのだと教えない限り,いくら言葉の上では消えても実体としてはさらに陰湿化して残るだけである。これは論理的に考えれば誰でも容易にたどりつく結論のはずだ。それなのに,なぜあくまでそういう反対論がでるかというと,一つはコトダマの影響だ。「コトダマ信仰」の世界では,言葉と実体は表裏一体,同じものだ。だからこそ,「言葉を消せば実体も消える」ということになる。差別語を消せば差別も消えることになる。しかし,そんなことは実際には無い。無いからこそ,コトダマ信仰のない外国人は,決してそんなことはしないのである。そして,こういう反対論者がいるのは,もう一つ「ケガレ思想」の影響でもあるのだ。ここでケガレの定義をもう一度思い出して頂きたい。
「罪も禍も過も皆同じく穢で,悪霊の仕業と考える」――ここが肝心なのだ。
「過」もケガレならば,早いところそれを「水に流し」てしまえばいい,ということになるではないか。この「水に流す」とは,結局禊(みそぎ)をすることで,そうすれば過去の「差別」という「過」そして「罪」が消えるものだと思い込んでいる。そう思うのもケガレ信仰を信じているからだ。信じていなければ,どうして「触れず」にいることが物事の解決になるというような馬鹿なことを信じるだろうか。どうして石けんでも落ちないものが「水で流せ」る,と信じるだろうか。
Hiro
Hiro

 このレポートの冒頭でお伝えした通り,私が疑問に思っていたことが井沢さんの文章を読むことによって解消しました。被差別部落が日本にうまれた理由と部落差別をなくすには何をしたらいいのか。もう一つは,「日本に自衛隊は要らない」という人がいるが,それはなぜなのか,の2つについて,私は理解することができました。ありがとうございました。

あなたもぜひ,『逆説の日本史』を読んでみてください。歴史嫌いの私が歴史が好きになりました。それくらいこの本は面白い,と私は思います。

そして,あなたにも感謝します。

最後まで読んで頂き,ありがとうございました。

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