アルビン・トフラー著『第三の波』の紹介
世界の歴史を遠い過去から近未来まで通して,これほど詳しく説明している本に出会ったことがありません。日本では1980年出版ですから,自分が大学4年生くらいのときです。その時は遊んでばかりいたように思います。自分にとって,インターネットのことなど全く知らなかった時代です。その当時もうすでに世の中は動き始めていたという訳です。もしかしたら現在も,今とは違う世の中に向けて見えない世界で動いているのかもしれません。どんな動きか,私にはぜんぜん分かりません。
さて,2008年当時,私は0小学校で教師をしていました。そのころ「この頃やけに児童虐待が増えてきたな,自分の子ども時代(1960年代)は児童虐待なんて全くなかったぞ。」と私は思っていました。トフラーは,この問題にも答えてくれているのです(自分で勝手に思いこんでいるのかもしれません)。みなさんは,なぜ児童虐待が増えてきたと思いますか。まず,本当に児童虐待が日本で増えているのかどうか確かめてみましょう。
グーグルで調べてみると厚労省がまとめた児童虐待件数の推移グラフが出てきました。これを見ると,児童虐待が1995年くらいから増えているのがわかります。2008年というと児童虐待が増えだしてから13年も時間が経過していることもわかります。2008年になるまで,このことについて私が気づいていなかっただけになります。2008年当時,O小学校の同僚のK先生に「自分たちの子どものころはこんなことなかったのに,なぜ虐待が増えてきたんでしょうか」と質問したことを今でも覚えています。その時の同僚のK先生も明確な答えは持っていませんでした。
突然ですが,ここで読者のみなさんに質問です。なぜ児童虐待が増えてきたのか,あなたはどう思いますか。その理由を考えて,次の予想から選んでください。但しこの答えは,アルビン・トフラーが書いた『第三の波』の内容を基にして,私自身が考えた解答になります。なので,この答えは正解ではないかもしれません。<考え方の一つ>だと,ご了承ください。
質問1:日本では1995年くらいから児童虐待が増えています。どんな理由が考えられるでしょうか。次の予想から選んでください。
予 想
- ア.1760年代に起こった産業革命によって世界は産業中心の社会に変化していった。しかし,この社会のシステムは徐々に機能しなくなってきている。社会の役割分担は崩れていて,一番基本的なしかも一番弱い部分(つまり家庭)に集中している。それが人格の危機になっている。
- イ.日本社会では,家の長を中心とする大家族であったが,社会構造の変化によって大家族は核家族に変化していった。そして,1990年代日本の経済はバブル崩壊とともにデフレに陥り,経済発展することなく閉塞感が社会に蔓延し子どもという弱者にしわ寄せが起きていると考えられる。
- ウ.その他
アルビン・トフラーの『第三の波』からひも解くと,この答えは「ア」になります。「第二の波」は日本のみならず全世界に波及し,そして今,トフラーの言う<第三の波>によって産業社会が衰退しつつあります。つまり,産業社会の崩壊が起きていて,同じように家庭も崩壊していっています。そこで人格の危機が起こっているというわけです。もしかしたら,イの考え方も正解なのかもしれません。また,アとイの複合的なものが正解なのかもしれません。なぜ児童虐待が増えてきたのか私には,本当のことは分かりません。
「今の社会構造はこれからも永遠に続くだろう」と私は思っていました。というより,私は今の社会のことしか知りません。今と違う社会が来るとは,想像すらできません。
トフラーは,「今の社会構造を創ったのは<第二の波>だった」と,言っています。
<第二の波>についてウキペディアでは,次のように書いています。
「第二の波は産業革命であり、18世紀から19世紀にかけて起こった。工業化により、それまでの農耕社会から産業社会へと移り変わる。社会の主な構成要素は、核家族、工場型の教育システム、企業である。また,大量生産、大量流通、大量教育、マスメディア、大量のレクリエーション、大衆娯楽、大量破壊兵器などに基づくものである。それらを標準化と中央集権、集中化、同期化などで結合し、官僚制と呼ばれる組織のスタイルで仕上げをする。」
<第二の波>以前には,<第一の波>によって社会が創られました。<第一の波>についてウキペディアでは,次のように書いています。
「第一の波は農業革命の後の社会であり、約15000年ほど前から農耕を開始したことにより、それ以前の狩猟採集社会の文化を置換した(歴史学で本来使われる18世紀の「農業革命」とは概念が異なり、新石器革命、あるいは農耕技術の革命に相当する)。」
第一の波は数千年をかけて少しずつ社会が変化していきました。この波によって,貧富の差が生まれ,宗教が生まれました。
ここで再度質問です。トフラーは<第二の波>によって今の社会構造は創られたと言っています。それでは,ソ連を中心とした社会(共産)主義社会も資本主義社会の社会構造と同じだったでしょうか,それとも違う社会構造をしていたでしょうか。この解答もトフラーが著書で書いていることを正解とします。ご了承ください。
質問2.ソ連を中心とした社会(共産)主義社会は,資本主義社会の社会構造と同じだったでしょうか。あなたはどう思いますか。次の予想から選んでください。
予 想
- ア. ソ連を中心とした社会(共産)主義社会は,資本主義社会の社会構造と同じだった。
- イ. ソ連を中心とした社会(共産)主義社会は,資本主義社会の社会構造と違っていた。
- ウ.その他
トフラーによると,「ソ連を中心とした社会主義社会は,資本主義社会の社会構造と同じだった」と書いています。よって答えは,アになります。また,トフラーは「レーニンは,社会主義だけが本来経済的搾取を必然とする力学を備えていないから,植民地化された人びとを抑圧と悲惨から解放することができる,と主張した。レーニンが見逃していたのは,資本主義にもとづく産業国家をつき動かしている原理原則の大部分が,社会主義に立つ産業国家をも同じように動かしている点である。社会主義産業国もまた,世界的規模の貨幣制度を持つという点で資本主義国と変わりなかった。」と書いています。つまり社会主義国であっても自国が経済成長するためには,外国の安い資源が必要であったということです。トフラーによると,<社会主義だから搾取は必要ない>とは言えなかったということになります。
<第三の波>についてウイキペディアでは,次のように書いています。
「第三の波は脱産業社会(脱工業化社会)である。トフラーは1950年代末にはこれを言いはじめ、多くの国が第二の波から第三の波に乗り換えつつあるとした。彼は、それを説明する造語をたくさん作り、他の人々が発明した情報化時代、情報化社会、情報革命のような造語にも言及した。」
トフラーは<第三の波>によって,「これまでになかった文明が出現しようとしている。しかし,<第二の波>によって創られた社会を必死で守ろうとする人々もいるので,動乱と激動の時代がくるかもしれない。<第三の波>は,家族関係を崩壊させ,経済の基盤をゆるがし,政治体制を麻痺させ,価値体系を粉砕してすべての人間に影響を及ぼすだろう」と書いています。
岡田斗司夫さんは「これからの社会は,評価経済社会になるだろう」と言っています。これは,新しい文明の一部なのかもしれません。
トフラーは,「情報化社会の実現によって画一的な大量生産中心だったものが,個人に合わせた生産が可能になるだろう。政治も多数決ではなく,各個人に合わせた体制になっていくだろう。仕事も家庭でできるようになり家族の在り方が変わり,子どもが仕事に参加しやすくなるであろう」と書いています。
私の考えとしては,この<第三の波>による大変革は長い時間が必要であろうと思います。なぜなら,今の社会を構成している人々の抵抗が大きいからです。この300年という長い年月で築きあげてきた社会がすんなりと次の文明に変化するとは思えません。再生可能エネルギーがいまだに開発されていないとなるともっと難しいと思います。ただし,一度変化する傾向が顕著になると一気に革命のような変化が訪れるかもしれません。まあ,未来のことはとトフラーでもわからないでしょう。私の孫の時代には,<第三の波>の社会が出現することを願っています。
<第三の波>について,私のレポートでは簡単な説明しかしていませんが,この本では細部に渡って詳しく説明しています。興味がある方は一読をお勧めします。私はこの本を2冊購入しました。成人になった孫達に読んでもらうためです(読んでくれないかもしれませんが,自己満足でいいのです)。
〇トフラーについての簡単な経歴(ウィキペディアより)
1928年、ニューヨーク市で生まれる、1949年、ニューヨーク大学卒業。妻となるハイジとはニューヨーク大学で出会った。学生だった彼らは、大学院にそのまま在学し続けることに疑問を持ち、アメリカ合衆国中西部に移住。そこで結婚して工場の従業員として約5年間を過ごし、工業化された大量生産の現場について実地で勉強した。ハイジはアルミニウム鋳造工場で働いていたが、その工場の組合事務員として働くようになった。アルビンは機械修理工兼溶接工となった。
彼らの実地の労働経験により、トフラーはまず組合系の新聞の記者となり、ワシントン支局に異動となり、ペンシルベニアの日刊新聞の特派員として3年間、議会とホワイトハウスを担当した。その間、妻はビジネスと行動科学を中心とした専門的図書館で働いていた。
フォーチュン誌に招かれてニューヨークに戻り、アルビンは労働問題担当のコラムニストになった。後にビジネスや経営についても担当するようになる。
フォーチュン誌を離れると、IBMに雇われることになり、コンピュータが社会や組織に与える影響について調査する仕事を請け負った。このため、コンピュータ黎明期の開発者や人工知能研究者らと知り合うことになった。ゼロックスは彼を招いて同社の研究所について文章を書いてもらい、AT&Tは彼をコンサルタントとし、戦略的助言を求めた。このAT&Tでの仕事では、政府がAT&T解体を強制する10年以上前に分割を助言していた。
1960年代より、トフラーは、著書『未来の衝撃』に結実する文章を書き始めていた。
かつては Russell Sage Foundation の客員学者、コーネル大学の客員教授、New School for Social Research の教職員、ホワイトハウス特派員、フォーチュン誌編集者、ビジネスコンサルタントなどを務めた、世界各国のオピニオン雑誌に論文が訳されている(日本では中央公論が多かった)。
1996年、ビジネスコンサルタントのトム・ジョンソンと共同でトフラーの著作にあるアイデアを様々な形で実現するコンサルタント会社 Toffler Associates を設立した。Toffler Associates の顧客は企業やNGOだけでなく、アメリカ合衆国、韓国、メキシコ、ブラジル、シンガポール、オーストラリアといった国々の政府も含まれる。
2016年6月27日にカリフォルニア州ロサンゼルスの自宅で死去。
最後まで読んでいただき,ありがとうございました。