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三石巌の言葉

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生活の知恵
Hiro
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三石巌の書籍で、現在絶版のため読むことができない本の中からご紹介させていただきます。

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三石巌全業績-17,三石巌全業績-11から私が気になった文章を抜き書きさせていただきました。

Hiro
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以下、全て三石巌の文章です。

【三石巌全業績-17 より抜粋】

老化への挑戦

 「生体の合目的性」

 「年をとる」ということばは、「老いる」ということばと同じ意味に使われる傾向がある。それは、英語の場合にはもっとはっきりしている。エイジングということばが、「加齢」と訳され、「老化」と訳されていることからよくわかる。
 それにしても、加齢と老化とは同義であるはずがない。老化の予防という発想はあっても、加齢の予防という発想がありえないことから、この区別ははっきりしている。それはつまり、同じ年の人でも、老化の様相がちがうということにほかならない。
 私は1901年の生まれだが、同じ年に誕生した有名人が2人いる。ひとりは天皇、ひとりはライナス・ポーリングだ。ふたりを比べてみると、老化の様相はかなりちがう。背骨の形、口の動き、歩き方などが全くちがっている。しかし、二人とも高齢の人である
ことは、一見にして誰にも明らかである。
 年齢になかみはないが、老化にはなかみがあるということだ。老化という現象は、自然の自己運動である、と私は考える。私にいわせれば、老化ばかりではなく、人の生も死も自然の自己運動である。
 自然はもともと目的などもっていない。太陽は周囲に光や熱を与えるのが目的でそうしているわけではない。すべてはあるがままの自然であって、そこには意図も目的も存在しない。それらの自己運動に、万有引力の法則や熱放射の法則があるのみである。生や死を自然の自己運動とみるのは、そのような考え方による。大昔の<物活説>のみが、自然の自己運動に、意図や目的を与えたといってよいだろう。
 生命の誕生は自然の自己運動であり、いわば偶然のできごとであった。したがって、そこに出現した生物にも目的のあるはずがない。しかし、いったん現れた生物が、生物として存続するためには、個体の保存がなければならず、種の保存もなければならない。そこで、生物の誕生は、必然的に目的の設定を約束することとなった。それは、個体の保存および種の保存である。この2つの目的がなければ生物は絶滅せざるをえなかった。
 これら2つの目的のうち、優先するのは種の保存である。したがって、生殖細胞製造の大目的が達成された時点で、個体の保存は不必要となる。その段階から、個体は死に向かうわけだ。
 人生に起承転結をみようとするとき、起承の2段階は、種の保存という目的に沿い、また個体の保存という目的にも沿った過程となっている。しかし転ともなれば、この生物の大目的はぼやけてくる。そして最後の結では、すべての目的が失われる。いやむしろ、すべての
目的が失われる段階を結とすべきだろう。したがって、結は、ひたすら死に向かう段階といってよいことになる。起承転結は全生物の定めといえるだろう。
 生体における自然の自己運動の観点からすると、起承の段階ではそこに合目的性が内包されていることがわかる。この段階が終われば、合目的性の積極的な意義はなくなるが、その惰性はのこっている。人間はそのなかに生き、自らの目的を発掘し、それによって人生の意義を見出そうとする。これが<生き甲斐>というものだろう。この期間をつうじて、生体の自然の自己運動は、すみやかにあるいはおもむろに、死に向かって歩みを進める。
 もしも個体の保存が優先するのなら、死は不合理である。そうなれば、すべての生物は永遠の生命を与えられ、巨大な動物恐竜はまだ生きているかもしれない。そうして、人間のような弱小動物が世にでる機会はなかっただろう。
 とくと考えてみれば、恐竜でさえもが、出現できたかどうか疑問だ。動物というものは植物に依存している。草食動物が出現して、それが死ぬことなしに止めどなくふえたとしたら、植物はすべて丸坊主になるだろう。自然の自己運動が、動物にとっての毒物を植物に与えた例は多い。植物には麻薬やアンチビタミンなどの防御手段が用意されたのである。もしこれが徹底すれば、動物は絶滅し、地上は植物の天下となっただろう。そうなれば虫媒花は出現せず、したがって高等植物はありえないことになる。
 植物の防御手段が、今日のように不徹底であれば、無限にはびこる動物のために、植物はほぼ絶滅せざるをえない。そこで動物はえさを失うので、これもまた絶滅することになる。
そうなれば、地球上に生命が発生したということは、線香花火のような歴史的事実となる。これを考えてみると、自然の自己運動が味わいの深いものであることに気付く。
 生物の進化が至上命令であるはずもないが、死は進化に道をひらく現象といってよい。種の保存という大目的を達成した生物は、死に向かって一斉に行進を開始するのが、自然の自己運動の本然の姿なのだ。
 これを最も忠実に実現する生物の例はイネである。イネは種子がみのれば急速に生を終える。種の保存という大目的が達成された時点から死にいたる過程を老化というならば、イネの老化は賞賛に値するほどはやい。そして、人間の老化は恥ずかしいほどおそい。この足どりのおそい老化のゆえに、人間は勝手な目的設定をする。金もうけをしたいとか、真理の探究をしたいとか、社会に貢献したいとか、他人より速く走りたいとか、さまざまな目的がすえられる。
 このような人間のわがままな多様な目的設定が生まれた原因は恐らく<労働>という人間独特の営為にあるだろう。
 食糧として捕えた動物の皮を割くために、原始人はかけた石を使った。かけた石は種の保存のために直接に役立つものではない。これを作る目的は、種の保存の目的にとっては間接的であって、その行為は労働の名に値する。自動車製造工場で働くのは食うためにはちがいないが、自動車を食うためではない。その意味でこの行為の本質は労働である。しかもなお、その労働の報酬はカネであって食料品ではない。

「転に賭ける」

 科学技術が進歩すれば、生産性は一様に向上し、やりくり次第で、収入は衣食住をまかなって余りあるような計算になる。そこから余暇が生まれる。
 カネの用途が無限に広く、時間の用途も無限に広いのであるから、人間はとめどなく多様な目的を設定することが可能だ。そして、ここに人間という動物の特殊性がはっきりしてきたといってよいだろう。人間の目的は、種の保存という至上命令一本にしばられてはいないのである。われわれはそこから大きく逸脱してきたといわざるをえないのだ。
 どんな人間も、種の保存や個体の保存に目を向けないわけではない。ガンの研究とか、健康保険とか、老人福祉とか、ボケの対策とか、公害反対とかがその例である。おかしなことだが、人間がそれと全く矛盾するような目的をたてることも決してめずらしくない。自然の自己運動の創造物である人間の多目的性ほどおもしろいものはないだろう。
 大脳の機能を別として、全身のあらゆる器官の機能は、30歳前後を境として次第に衰えていく。これは、種の保存という目的が、その年頃までに完了するのが正常であることを意味している。ここで起承は終わる。
 この時点から始まる老化という自然の自己運動が、起承30余年の2倍以上も続くという事実は、われわれに、老化がゆるがせにできない問題であることを語ってくれる。
 それは、種の保存をすませたのちに人間なにをすべきかの問題であり、人間の老化がなぜこんなにも長びいたかの問題であり、老化の年代に活動力を保持するにはどうすべきかの問題でもある。人間は転の段階に人生を賭けるという意味において、他の動物と全く異なる生き方をする。転の段階での目的設定は、自然の自己運動とかかわりなく、<人間の自己運動>と深くかかわっている。そこからは、人間特有の善が生まれ、また悪が生まれるのだ。
 起承を駆動するものは自然の自己運動であり、車を駆動するものは人間の自己運動である。転の特徴は、そこに老化という自然の自己運動の暗いかげが、大きく小さくかぶさってくることだ。結ともなれば、人間の主体的な自己運動は消滅して、自然の自己運動が生殺与奪の鍵をにぎる。
 人間の自己運動は、転の段階で開花するとはいえ、起承の段階にすでにその萌芽はある。ニュートンといえば古今を通じて最高の科学者といえるが、彼の業績のすべては起承の段階で終わっている。しかも彼は終生独身であった。93歳という長寿に恵まれているのにで
ある。このような例外のあることも見逃すことはできない。
 起承の段階がすぎれば自動的にはじまる老化という自然の自己運動は、人間を死の淵に追いこんでいく。それにもかかわらず、われわれが自然にさからって生きようとし、その
意図を正当化するかのようにいろいろな目的を設定するのは、人類に特有な発達した大脳新皮質の所業である。ここに与えられる情報の量が最高に達するのは50歳代とされる。さらに、情報処理能力が最高に達するのは60歳代とされる。
 われわれ人間が、自然の自己運動にさからって強引に生き、転に栄光を求めようとするのは、ほかでもない、大脳新皮質という高度の器官を、自然の自己運動が人類に与えたがためである。そのことから直ちに、われわれは、大脳新皮質をフルに活用しなければならないことを、自然との盟約として受取らなくてはなるまい。
 家庭婦人が、子育てを終わった時点で今更のように新しい目で社会を見、そこで何かの活動をしたいと考える例が多い。この場合、その時点がすなわち、その人の転の戸口にあたる。
妊娠・出産・子育ては、何といおうと自己運動的におこなわれる。そしてその作業はかなりの時間とエネルギーとを要求するから、静かにあたりを見渡す余裕がない。そのことによって、家庭婦人は一般に転の段階にはいる時期がおくれがちになる。そのことを引け目に思うようなことはまちがっているだろう。
 男性の場合はそれとちがう。妊娠・出産はむろんのこと、育児さえも女性に押しつけることができる場合がある。したがって、社会に出たときを転としてよいだろう。男性にとっての承の段階は、授精という単純な作業を転の段階にふくめたような形となる。
 育児を男女の協同作業とするような風潮があらわれてきたが、これは両者の転の性格を変えずにはおくまい。この問題は、人生の起承転結と関連づけて考えたいものだ。
 サラリーマンには定年退職と言う転機があるが、これも転の1つの姿であって、このとき初めて転に出会ったのではない。生々流転ということばがあるけれど、この転と私のいう起承転結の転とは別物ではない。人生は転々として流れていくのである。こまかに見れば、日々これ転といってよいくらいのものだ。起承転結は、極端に大きく見たときの分け方にすぎないのである。

「シミはとれないか」

【三石巌全業績-11 健康ものしり事典 P19より抜粋】

 シミの実体は茶褐色の顆粒である。それは、過酸化脂質にタンパク質の結合したもので、「リポフスチン」とよばれる。過酸化脂質とは、不飽和脂肪酸の過酸化物である。このリポフスチンを分解することができるなら、シミはとれてよいはずだ。また、不飽和脂肪酸の酸化を防ぐことができるなら、シミはできないはずだ。
 不飽和脂肪酸の酸化は、ビタミンEやセレンによって防ぐことができる。それには、「抗酸化作用」があるからだ。したがって、ビタミンEやセレンにはシミを防ぐ効果がある。むろん、どんな微量でもよいというわけにはいくまい。「早老症」といって、リポフスチンが急速にでき、十代以前に老人のからだになり、寿命のつきる病気がある。この病気を説明するには、正常人には過酸化脂質を分解する酵素があるのに、この患者にはそれがない、と考えれば簡単である。
 じつは、ビタミンEやセレンでシミがとれた例がいくつもある。セレンは過酸化脂質分解酵素の成分であることがわかっている。すると、ビタミンEがこの助酵素になっているのではないか、という気がしてくる。
 リポフスチンは、心筋、脳、肝臓などの細胞に、加齢とともに蓄積する。
Hiro
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最後まで読んでいただき,ありがとうございました。

Shige
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