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私の頭は,まだ混乱してます

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仮説実験授業
Hiro
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板倉聖宣さんが言うところの「仮説実験的認識論」について,「何をするにも<仮説実験>ということでしょ」と,私は考えてきました。

Hiro
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ところが『ものの見方考え方WORKS№2』を読んで,私の考え方が間違っているらしいことに気が付きました。そして,仮説実験的認識論の奥の深さを再認識したのです。

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ところが,この本を何回か繰り返し読んでも「仮説実験的認識論はこういうことですよ!」と,自信をもって伝えることができません。私の脳は,いまだに混乱しています。

Hiro
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とりあえず,「仮説実験的認識論とはこんなことかなー?」という感じです。「仮説実験的認識論」について,私がすっきり理解できるまでには,まだまだ多くの時間が必要みたいです。

Hiro
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そんな中,あえて『ものの見方考え方WORKS№2』(NPO法人楽知ん研究所2024年9月発行)について紹介します。著者は,楽知ん研究所の宮地祐司さんです。宮地祐司さんは,大学で「仮説実験的認識論」を講義されているそうです。

Hiro
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前置きが長くなりますが,少しお付き合いください。

Hiro
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あなたは,<矛盾がもって自らを解決する>という板倉聖宣さんの言葉を聞いたことがありますか。私は,たしか1991年の7月の仮説実験授業夏の全国研究大会での教師論分科会で初めて聞いた記憶があります。

Hiro
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当時,犬塚さんと二階堂さんが,<矛盾がもって自らを解決する>という言葉について,どうのこうのと語っていたように思います。私には,何のことかさっぱりわからなくて「つまらないなあ」と思っていました。それから35年近く時が過ぎたわけですが,『ものの見方考え方WORKS№2』という本に出あいました。

Hiro
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実は,2024年の秋に原畠さんが宮地祐司さんを招いて,仮説実験的認識論についての研修会を設定してくれました。私は申し込みしたのですが,残念ながら用事ができて参加できませんでした。

Hiro
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少しでも内容を知りたいと思い,『ものの見方考え方WORKS№2』を購入しました。私は,読んで驚きました。板倉さんの仮説実験的認識論(発想法)が書いてあったのです。その中のひとつが<矛盾がもって自らを解決する>という内容だったということです。

Hiro
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あなたは,<仮説実験的認識論>は,<ノーベル賞級>だと板倉さんが言っていたことを覚えていますか。「考え方の大元なので,ニュートンやガリレオ,アインシュタインが発見した法則よりも素晴らしい認識論になる」みたいなことを言っていたと思います。この本を読むとまさにその通りでした。読みながら私は興奮していました。

Hiro
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この本の中で原畠さんが,「仮説実験授業をする教師であっても,目的意識的に学ばないと仮説実験授業の考え方は身につかないのかもしれない」と,書いてありました。30年以上,仮説実験授業に関わってきた私にとって,まったく新しい認識だと思えるような内容だったので私は素直に納得できました。

Hiro
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残念ながら板倉さんはすでに亡くなられています。板倉さんが<仮説実験的認識論>について具体的にどう考えていたかについて,今となっては分かりません。ただ,板倉さんは,たくさんの文献を残されています。そこで宮地さんが板倉さんの文献から<仮説実験的認識論>についてこうではないか,と予想してまとめてくださったということです。

Hiro
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あくまで宮地さんの仮説として読んでください。(宮地さんの考え方は当たらずといえども遠からずだろう,と私は考えています)また,宮地さんが書いた文章から学んだ私が間違っている可能性もあります。もし<仮説実験的認識論>が気になったら,あなた自身が宮地さんの書いた文章から学んでみてください。よろしくお願いします。

Hiro
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話はそれますが,仮に有名人の形態模写をする場合<直接有名人本人を真似るより,形態模写をする芸人さんを真似るほうが簡単にできる>ということを私は誰かに聞いたことがあります。何が言いたいかというと,難しいことを学ぶときは,本人から直接学ぶよりも,学んで理解した人から学んだほうがより分かりやすく早く理解できる,という意味です。

Hiro
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ということで,板倉さんではなく,宮地さんあるいは原畠さんから<仮説実験的認識論>について学んでいくことにしましょう。

Hiro
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前書きでごちゃごちゃ書いてきましたが,先ず<仮説実験的認識論>の基本的な考え方を押さえておきます。

<仮説実験的認識論>の基本的な考え方

①<客観的なもの>を知るためには,非客観的であるところの<主観的なもの>をもってこないと認識が成立しない。(<認識は主観的なものだ>ということです)
②科学的認識は対象に対して目的意識的にとらえるところの予想・仮説をもとにした実験によってのみ成立する。(<授業科学に限定する>と板倉さんは言っています。が,<全ての科学にも当てはまるだろう>とも言っています。のみということは全てということです。つまり例外は無いということです。)
③古典力学と電磁気学,量子力学と同じように仮説実験授業にも,<矛盾の解決コース>と<転釈のコース>がある。

ちなみに,

古典力学では,
<矛盾の解決コース> 力 ⇄ 運動
<転釈のコース>   天体運動
電磁気学では,
<矛盾の解決コース> 電場 ⇄ 磁場
<転釈のコース>   光
量子力学では,
<矛盾の解決コース> 波動 ⇄ 粒子
<転釈のコース>   行列力学
仮説実験授業では,
<矛盾の解決コース> 自由 ⇄ 束縛   主観 ⇄ 客観
<転釈のコース>   (問題1)
Hiro
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<仮説実験的認識論>の基本的な考え方を簡単に紹介しましたが,私には何のことなのかさっぱりわかりません。特に<矛盾の解決コース>と<転釈のコース>についてです。

Hiro
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もっと具体的なことを通して学ばなければ,私には理解できませんでした。この2つのコースの内容については後で説明します。

<仮説実験的認識論>の1つは,<矛盾がもって自らを解決する方法>と言えます。矛盾とは,あってはならないものではなく解決できるものだという考え方です。教育界で昔から言われてきた,<子どもに教えるにあたって子どもを自由にさせてはいけない>,逆に<子どもを束縛しすぎてはいけない>という考え方があります。また,<子どもを主観的に自由に考えさせてはいけない>が,<子どもを客観的に考えさせなくてはいけないが,いきなり客観的に考えさせることはできない>という2つの矛盾を仮説実験授業は解決したということです。
仮説実験授業がどうやってこの矛盾を解決したかというと,<問題・予想で子どもを束縛>して,<理由で客観的に考えさせる>。そして,<実験で束縛する,つまり主観的に考えさせる>。こんな感じではないでしょうか。仮説実験授業を実施する一連の流れの中で<自由と束縛><主観と客観>が否応なしに存在しているということでしょうか。板倉さんは,次のようにうまいこと言っています。

仮説実験授業における問題は,子どもたちに束縛を与えることによって,彼らの自由を開花させる。そしてまた,彼らの自由を生起させることによって,束縛を要求させる。だから,仮説実験授業をやった連中は,「また束縛してくれや」と言うんでしょ。「また仮説実験授業をやってくれや」というのは,「また束縛してくれや」ということでしょ。(爆笑)

で,束縛すると「オレに予想たてさせてくれや」「議論させてくれや」となるでしょ。これ,グルグルグルグルやってるわけでしょ。そういうことが大事なんだ。

Hiro
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問題に入る前に,前に記述した①から③について,ここで簡単に説明します。

  • ①<客観的なもの>を知るためには,非客観的であるところの<主観的なもの>をもってこないと認識が成立しない,と②科学的認識は対象に対して目的意識的にとらえるところの予想・仮説をもとにした実験によってのみ(・・)成立する,について板倉さんの言葉を利用して説明します。板倉さんは次のように書いています。
Aさん「だいたいからして科学というのは,客観的な法則をつかむのだから主観性を排除しなければならない」
Aさん「だから,ありのまま見なきゃならん」
Aさん「だから,予想なんていうのはケシカランのだ,仮説なんかケシカランのだ」
ところが僕(板倉)は,
板倉さん「いや,予想がなきゃ見えないんだよ」
板倉さん「<客観的なもの>を知るためには,非客観であるところの<主観的なもの>をもってこないと認識が成立しない」
とね。
こういうことは,普通の人間から言えば,非常に矛盾しているわけですね。わかってしまえば当たり前なんだけれども,わからない人間にとっては,
Aさん「なんでそんなバカなことをいうんだ。心を空にして見るのが観察というものだ」
というわけです。ところが,僕(板倉)は
板倉さん「主観的なものがはっきりしなければ見えないのではないか」
というわけです。でも,見るときに,「主観的にオレが思った通りだ」と常に思ううちはダメで,見たときに,実験をした結果が自分を否定する,あるいは肯定する――そういうふうに,たえず相互交流が起こるという形で認識は成立するのだ,と。
<主体>と<客体>との関係における矛盾をとらえる,ということが,仮説実験授業の基本的な認識論なわけでしょ。
 ただ,僕の認識論として決定的に重要なのは,「科学的認識は対象に対して目的意識的にとらえるところの予想・仮説をもとにした実験――つまり,実験はつきあわせですね。予想は主観的なものですね。このつきあわせ――によってのみ成立する」ということです。「のみ」ということで限定することによって,「これ以外にない」と言うんですから,本質論的な問題なんですね。偶然的な,「こういうこともあるよ」というものでもない。
 ところが,これを認識論一般としたら世界が広すぎるでしょ。僕はこれを教育,しかも教育全体じゃなくて「授業科学」というものの中で捉える,「授業科学」と考えて限定した。だから,授業の枠で勝負する,と。教育一般とか,認識一般とかは広すぎて勝負がしづらい。これは「科学的認識は限定して成り立つ」,つまり「自然認識の階層性があるんだ」ということを非常に適用しているわけです。勝負のなわばりを決める。そしてそこで絶対に勝てる,100%捉える。つまり法則を見つける。それで「のみ」という形にしていく。
  • ③古典力学と電磁気学,量子力学と同じように仮説実験授業にも,<矛盾の解決コース>と<転釈のコース>がある,について
Hiro
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古典力学の<力と運動の矛盾のコース>について,本文66ペから抜き書きします。

古典力学の場合は・・・・
f=d(mv)/dt
運動量mvの変化が力fである
こういうのがニュートン力学のもっとも根本的な式でしょ。そうするとね,これはね,イコールで書いているけれども,実際は,
f→d(mv)/dt
力fがあると運動量mvが変化する
で,
f←d(mv)/dt
運動量mvが変化すると力fが生じる
と,だからイコール,f=d(mv)/dtなんですけどね。
でも,こういうことが大変わからないわけです。つまり,「力は力であって,運動は運動である」と。だから,「力が原因になって運動の変化が生ずる」という認識の仕方は,これは抵抗ないんですよ。原因と結果だからね。しかし,イコールになっちゃうとね,「いったい何だ?力と運動が等しいとは何事であるか」となるんですね。(略)
それで,力と運動は別のものだから,矢印⇄で
力 ⇄ 運動
と書くことはできるけれども,
力 = 運動
と=イコールという形では書けない。でも書けないと,力学はできないわけですね。
 実は,「力というものは,運動の変化でもあるし,運動というのは力でもある」ということを否応なしにつきつけられてしまうときに,やっと,これ
f=d(mv)/dt
ができるのですね。
 このように「違うものが等しい」ということの発見が重要なんです。
この力と運動の2つの矛盾したものをどうやってとらえるかということの中に,力学の形成の厳しさがあり,そしてわかってしまえば,「なーんだ」ということになってしまう。
 それが,古典力学の場合の<基本的矛盾の解決のコース>。
  • 古典力学の<天文学の転釈のコース>
古典力学は,<矛盾の解決コース>だけでできたんじゃない。実は天文学が契機になってできている。
 慣性というのは,地上には実際には起こらない。ところが,天体現象というのは,たえず慣性運動をやっているわけですね。惑星はグルグルグルグル回って,止まらないでしょ。(略)「天体に関しては,1回動いたものは永遠に動くのである」というふうに解釈するんですね。そうすると,「ああ,そうか。天体は別か」となる。
 そう言っているときに,「天体は別ではない。天体も地上も同じである」と天体の運動を解釈しなおして,「だから地上の問題だって,摩擦さえなければ,永遠に動くんだ」という形で,つまり,古典力学特有の運動形態に転釈する。
 運動が永遠に行われているのが天体運動ですね。摩擦がない運動ってのは,<天体運動>と<原子の運動>です。天体運動は目に見えるわけですから,天体運動を見て,これを解釈しなおして,地上までおろしてくる。
 <力と運動の基本的矛盾の解決コース>はガリレオがやったし,また<天文学の運動形態の転釈のコース>もガリレオがやるわけですね。
 天体運動を解釈しなおす。あるいは,はっきりとは言葉で言わないけれども,原子の運動を解釈しなおす・・・という形で,「それならば,慣性を認めようじゃないか」と。だから,「力というのは慣性――運動しつづけようとするもの――を止めたり,もっと速くしたりするものである」ととらえる。そして,この2つが,うまくガリレオとニュートンとで統一されて,それで力学の
f=d(mv)/dt
という式ができたときに,これを天文学に使って,たとえばハレー彗星を予言するとかなんかで,みごとに予想できる,と。これで勝負あったで,幕になるんですね。(まとめると)
この矛盾がもって解決したのが

f=d(mv)/dt

   ↑

<矛盾のコース><転釈のコース>

力 ⇄ 運動  天体運動(原子の運動)

  • 電磁気学と量子力学についての<矛盾の解決コース>と<転釈のコース>について具体的に書くと長くなりますので割愛します。
Hiro
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それでは,ここで問題です。

問題1.転釈というのは,宮地さんに言わせると<飛ぶように考える>という意味です。解釈を飛躍させるということです。それでは,仮説実験授業での<転釈のコース>は,宮地さんは何だと考えているでしょうか。下の選択肢から1つ選んでください。

予 想

ア.仮説実験授業を一般論の授業における<自由⇄束縛>の本質的な認識論として拡張することができること。

イ.仮説実験授業では<授業書>が使えるということ。

ウ.教育のすべての問題は,実験で決着できるということ。

エ.その他

Hiro
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正解は,ア.仮説実験授業を一般論の授業における<自由⇄束縛>の本質的な認識論として拡張することができること,になります。一般の授業にも拡張して<自由⇄束縛>を考えるということです。つまり一般の授業においても矛盾から解決するということです。

Hiro
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ここで,問題です。

問題2.授業書は,<転釈のコース>ではありません。それでは,板倉さんは授業書については何だ,と答えているでしょうか。下の選択肢から1つ選んでください。

予 想

ア.授業書は単なるテキストにすぎない。

イ.授業書は授業科学をつくる大元である。

ウ.授業書は運動形態である。

エ.その他

Hiro
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正解は,ウ.授業書は運動形態である,です。これについては,私は???です。どんな意味なのか謎です。<授業書の運動形態>について書かれている本文85ペから抜き書きします。

 マネができて,授業というものの法則性が特有なかっこうになってでているのは何かということを分析すると,「問題」であり,「予想」であり,「討論」であり,「実験」である・・・ということが授業の運動形態の分析から出てくる。こっちは,認識論の基本的構造ではなくてね,つまり授業科学という具体的なものを攻めることによってできちゃう。これは,認識の基本的矛盾を攻めていって出てくるものと同じじゃないか,と。だから仮説実験授業の一番最初の授業書を出したときに,仮説・授業的な授業のやり方で,しかも運動形態として授業書を展開するような形で書いたわけです。
「なーんだ,こりゃ,「科学の形成と論理」と同じじゃないか」と。そうすると,これはどうしても本質的な理論と言わなきゃならないじゃないか,と。そうすると,世の中には本質的な理論として,古典力学と電磁気学と量子力学と仮説実験授業がある。これはエライことになっちゃったなぁと。(笑)オレ,ノーベル賞,5つぐらいもらわなくちゃいけない。(笑)そういうことになるわけです。
Hiro
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あなたは,ここに書かれた文章の意味が分かりましたか。私にはさっぱりわかりません。ここで宮地さんの説明を書いてみます。

仮説実験授業は<矛盾がもって自らを解決する認識の運動形態>を束縛した授業書の発明と,それを裏付ける本質的な認識論の提唱によって,授業科学という新しい分野を世界ではじめて打ち立てた。その功績は,まさに<ノーベル賞をもらえないほどのすごい仕事>(ノーベル賞は生きている人しかもらえないから,ニュートンもガリレオもノーベル賞をもらっていない)であることは間違いないとボク(宮地さん)は思う。
Hiro
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運動形態という意味を宮地さんは本文84ペで,次のように説明しています。

(略)人間の認識も脳ミソの中で動き,他人との議論,先人の研究成果で予想変更したり,しなかったり,ブレたり,揺れたりするわけで,これはまさに「<認識の運動>論」なのだ・・・と思ったら,突然,この「運動形態」という言葉の本質がわかった気になった。まぁ,「運動のスタイル」。その<認識の運動>の法則にとらわれてつくられたものが授業書。だから,授業書は,その<認識の運動>のしかたを<自由を得られる束縛>をつくるものなのである。授業書によって,授業の運動形態,個人のあるいは集団の認識の運動の形,スタイルが決まる・・・という,いわば脳ミソの運動形態,スタイルというのが「授業の運動形態」という意味なんだろうとボク(宮地さん)はとらえている。
Hiro
Hiro

どうでしょうか。あなたは,理解できましたか。私はまだ???です。ここで板倉さんに再度登場してまとめていただきましょう。

本質的法則とはなにか

古典力学における<力>と<運動>の矛盾が,天体運動を形づくる

それから,

電磁気学における<電場>と<磁場>の基本的矛盾が,もって自らを解決する形態が光を形成する

それから,

<粒子性>と<波動性>の矛盾が,もって自らを解決する形態が電子の運動を形成する。

それから,

<主体>と<客体>との矛盾が理想的に,もって自らを解決するようになりえた授業は,授業書に反映されている

というふうに僕(板倉さん)はとらえる。そうすると,古典力学,電磁気学,量子力学と仮説実験授業は同じではないかと。

Hiro
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さて,<仮説実験的認識論>とは何かについて書いてきたわけですが,授業の中では,<自由と束縛>と<主観と客観>の矛盾について授業書を使うことで解決してきました。また,授業科学の本質は,他の授業にも応用可能であろうということです。例えば,「キミ子方式」のように。

Hiro
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さらに,「矛盾がもって自らを解決する方法」があるだろうということ。つまり矛盾を見つけたらシメタになります。解決できるかもしれないということです。

Hiro
Hiro

また,科学的認識は目的意識的に問いかけて,実験によってのみ成立する,つまり予想を立てて確かめることが大切であるということ。

Hiro
Hiro

最後に,科学的認識は社会的認識であるということ。つまり,先人の考え,他人の考えをも使って,自分の認識を深めることができるということです。

Hiro
Hiro

さて,「仮説実験的認識論」について,あなたは理解できましたか。

Hiro
Hiro

板倉さんは,具体的な考え方を私たちにたくさん教えてくれました。例えば,「矛盾を見つけたらシメタ」「間違えたらシメタ」「衣食住足りて他人の笑顔」「親切とお節介は紙一重」等々です。もしかしたら,そんなことが「仮説実験的認識論」と言っていいのかもしれない,と私には思えてきました。そんなことを考えて,このレポートを終わります。

Hiro
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今のところ私には,「仮説実験的認識論」と仮説実験授業の関係,仮説実験授業の成り立ち,力学などの法則との関係性などが一緒くたになっていて,何がなんだかわからなくて,すっきりしていないような感じになっています。いつの日か,「仮説実験的認識論」について,私がすらすらーとあなたに伝えられるようになれたらいいなー,と思っています。

Hiro
Hiro

まとまりのないレポートを最後まで読んでいただいて,ありがとうございました。

Shige
Shige

良かったら,あなたの感想を教えていただけたらうれしいです。

Hiro
Hiro

 追 記

私が「仮説実験的認識論」とは何か,と大上段に振りかぶっているから理解できないのかもしれません。板倉さんは,「仮説実験的認識論」ではなくて「仮説実験授業の形成と論理」という言い方をされています。「形成と論理」とすると,このレポートに書いたように一段ずつ具体的に学ぶことができます。それを私が認識論としてしまうと???になってしまうし,学べないような気がしています。まとめられたら次回レポートにしてみます。

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